これでいいのだ!

息子は最近、ひんしゅく一家において突出してデキのいい娘のことを
ハジメちゃん」とよんでいる。


初めてそれを聞いた時
ワタシ「ハハハ!そしたら、あんた(息子)はバカボンで、あんた(ツレアイ)はバカボンのパパやね!」


息子・ツレアイ「パパはあんたやっ!」


って、なんやねん!

メイトの離職

また1人メイトが離職した。
これでパン屋開店当初3人いたメイトが全て離職したことになる。
離職した理由は、3人それぞれにあるのだけれど。
そして離職した3人とは別の2人が現在メイトとして働いてはいるのだけれど。


知的障がい者の職場への定着が難しい…平たく言えば、就職してもなかなか長続きしない、という問題があるということはNPOを立ち上げる前から耳にしていたことであるが、現実問題として自分の職場でもその問題が起きている。
離職は就職して1年を経過した頃からぼつぼつと始まった。やっと仕事もおぼえたのに、と思った頃からだ。そして辞める時はいつも突然だ。事前に「辞めたいのだけど」という相談が本人の口から出るわけでもなく、それが無理だとしても「仕事に行くのがつらそうです」とかいう相談が家族の人からよせられるわけでもない。
また、こちら側が「辞めてもらいたい」「これ以上は働き続けるのは無理」と思っているわけでもない。「辞める」というアピールが出た時点では本人がストレスを抱えているというのはすでに誰の目からもあきらかな状態であることが多いので「しばらく休んで、元気になったらまた再開されたらどうですか」と提案してもすでに手遅れ。「辞める」という意思は親子ですでに固まっている。


どうしてこういうことになるのだろう。自分たちスタッフは障がい者の就労支援に関しては何の知識も経験もない。ただお互いの人間性を尊重するということだけが指針とも言える。自分たちの指導の仕方がきつかったのだろうか。能力以上のことを求めていたのだろうか。
しかし、食品を製造販売している職場として、そこで働く人たちに守ってもらわなければいけない約束事というのは厳然としてあるし、その日の生産すべき計画高もある。職場である以上、障がい者であっても譲れないものはあるのだ。
そこの部分を根気強く指導していたつもりでも、当の障がい者にはキツイことだったのだろうか…


実際、ヨソの障がい者雇用をしている事業所ではどうなんだろう…
で、いろいろNET上を探してみると、私の疑問にピッタリ当てはまるものがあった。


JC-NETの実行委員であり社会福祉法人電機神奈川福祉センター・常務理事の志賀利一さんが書かれた原稿のようです。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/machito/empu/tomoshibi.html

知的障害者の就労支援(連載原稿)
日本てんかん協会東京都支部の会報誌「ともしび」に
2002年4月より1年間、表題のタイトルで原稿を書きました。
非常にシンプルなテーマをあげたつもりです。

あまりにピッタリなので、まんま転載します。(いいのかな〜?)

1月号:離職支援の仕事
仕事をみつけたいと考えている障害者に、企業等で働けるよう支援することが、就労支援の仕事としてもっとも注目されがちです。しかし、実際は、現在働いている人がその会社を辞める、つまり離職時の支援も大切なのです。私たちの職場でも、毎年50人以上の知的障害者が新規に就労していますが、継続支援をしている人のうち何人かは離職しています(毎年10人を越える)。

もちろん、離職の中には企業の倒産あるいは事業所閉鎖による、いわゆる会社都合の離職もあります。しかし、圧倒的に多いのが、本人都合の離職です。

離職時の支援を行う中で、知的障害者に比較的共通するパターンがあることがわかります。ひとつは、会社を辞める2週間以上前に、退職願等を会社に提出し、その時期まで勤務を続けることが困難です。多くの知的障害者は、会社に通えなくなってから、離職の問題を本人ならびに周囲が考えるようになります。

もうひとつは、いったん休職あるいは身分を保証して欠勤を続ける処置を会社がとっても、再度その職場に復帰し、仕事を続けることが比較的難しいことです。

このような課題を解決するために、私たちは雇用ルールの理解や会社への帰属意識、さらには経済的自立の意識に対して、より効果的な支援プログラムを作らなくてはならないのかもしれません。逆に、現行の雇用・退職のルールは知的障害者にとっては、わかりづらい、明文化できない慣行がたくさん存在するのも事実です。

もうひとつ典型的な離職時のパターンがあります。離職した知的障害者にその理由を聞くと、「同僚の○○さんに冷たくされた」「上司の△△さんが怖かった」といった回答がかなり多いのです。従来は、「数ヶ月で仕事にも慣れ、かなり戦力になっていると言われていたから、会社の中の対人面での問題から離職に至った」と結論付けてしまいがちでした。

ところが、就労してからも継続的に会社を訪問し、様々な情報収集を行っていると、労働力としては申し分ないが対人面だけの問題で離職する人は、本当に少ないことがわかります。仕事の変化や多様性になかなかついていけない、一人のパート職員にあまりにも依存的になっている、職場に慣れると同時に自分勝手な判断で仕事をするなど、職に就いた当初とは異なった課題に常に直面し、それを乗り越えられないでいる場合が多いのです。そして、このような職務上の課題を知的障害者本人が適切に把握できないため、直接的なきっかけである「注意された」「叱られた」などの対人面での行動を原因にあげてしまうのかもしれません。

離職し、再就職することは決してネガティブなことではありません。しかし、再就職が決して容易ではない現実は存在します。本人の意思や能力ではなく、雇用管理や継続的支援の方法で離職が予防できるのであれば、それに越したことがありません。就労支援の担当者は、これまで出会った離職支援の事例をしっかりと分析する必要があります。

と、ここまでがその原稿なんですが
うぅむ。あまりにもピッタリだ。
この
「同僚の○○さんに冷たくされた」「上司の△△さんが怖かった」
というのは、たぶん家に帰って家族にこのように訴えているだろうことは親御さんの口ぶりでわかる。
それに、自分たちでは冷たくしたり、脅したりはしていないつもりでも、強い口調で注意したことがこういう風に受け止められたんだろうなぁという自覚もある。
そしてそうなっていったことの原因もここにあるとおり。


「職務上の課題を知的障害者本人が適切に把握できないため」とあるが、こうなってくるとスタッフの方もどうすれば障がい者に理解してもらえるのかとあせり、次々とアプローチの方法を変えたり、しかし成果はあがらず障がい者にはストレスがたまり…といった負のスパイラルにどんどん落ち込んでいってしまう。
「乗り越えられない」でいるのは障がい者であるが、「乗り越えさせる」ということを乗り越えられないでいるスタッフにとってもこれはかなりキツイ状況である。

[雑感]初音ミクに癒されている

3月に入り娘の通う高校・近隣の高校、養護学校などの卒業式が立て続けに行われた。
引き続き来週は市内の中学校、小学校の卒業式がある。
自分の卒業式よりも子ども達の卒業式の方がいろいろと感慨深いものがあり、今思い出してもじ〜んときて目頭が熱くなってくる。(←単純)


自分の時は別離の悲しみとか巣立ちの喜びという感情は全くなく、次へのステップに夢いっぱいという感じで、ただの通過点だった。泣いてる子もいたけれど、自分は全く泣くこともなく。
しかしこれが自分の子どもの卒業となると全然違うのだ。
あの決まりきった卒業式の構成やら演出やらにどっぷりとはまってしまい、入学式からの6年間なり3年間なりのことが走馬灯状態になり、「あぁ、こんなに成長して…」と涙ぼーぼーになってしまう。
子らに関しては忙しさにかまけて、あまり手をかけずにきてしまったという負い目のようなものもあるしね。


ちょうど1年前にあった娘の中学卒業式では、合唱指導に力をいれている学校だけあって、生徒の歌がすばらしかった。特に最後の卒業生の歌った「旅立ちの日に
卒業生の声は初々しく態度も清々しい。またメロディや歌詞にも何か特別な気持ちを喚起させる力があるのだろう。
あの歌を思い出すたびに芋ずる式に関連するいろんなことを思い出し、じぃ〜んときてしまう。


で、今いろんなことに疲れたときに、コレを聞いて癒されている自分です。
実際のいろんな学校の卒業式で歌われている場面もアップされているようだけど、
この電子音の澄んだ歌がなんとなく一番しっくりと胸に響いてくるのはなぜだろう…

この人嫌い

ヨソの人のブログのブクマコメントに「この人嫌い」というのがあって、なんだかすごく不愉快な気分になった。
「この人嫌い」と書かれた人を擁護するとか、そういうことではなくて、いくつか並んでいるブクマコメントに混じってあったそのコメントになんだか暴力的なものを感じ、それで不愉快な気分になった。
こういうコメントをわざわざブクマコメントに記す人の目的はなんなんだろう。


私はあまりブクマを利用しないけれど、もし使うとしたらわざわざ「嫌い」な人のエントリーにはつけないだろう。その人自身が嫌いなわけじゃなく(だいたい見ず知らずの人ばっかりだし)書かれている内容自体に「なんじゃこれぇ〜」という拒絶反応を示したとしてもそれにわざわざブクマをつけておくこともしないだろう。


だいいち、「この人嫌い」ブクマをつけられたエントリーは私的な内容を綴ったものでカテゴリーも「日記」に属していた。
いわゆる大きな影響力を持つ公人のブログでもない。
それをちょっとのぞいて見た人に「この人嫌い」とかなんとか言われるスジアイはない。仮に「この人嫌い」と思ったとしても、それは自分の胸にとどめておけばいいことで、何もわざわざ公開されているブクマコメントに残しておくこともないだろう。


「はてなブックマークって何?」のところに「ブックマークを公開できるので、はてなブックマークのユーザー同士で話題/感想を共有するコミュニティとして利用できます。」とあるけれど、「この人嫌い」という感想を他の人と共有したかったのだろうか…
だったら身近な人に「ねぇ、こんなの書いてる人いるけど、私はこんな人嫌いだなぁ」とつぶやいてみるとか、そんな程度にしておくもんじゃないのかね、と私は思うよ。


このコメントを残した人は、これで何かスッキリした気分になったのだろうか。
私にはそのコメントを残したことで、その人自身が自分を貶めているような気がしてならない。
私自身もズケズケと物を言うタチだから、これに近いことを普段やっているのかもしれない…Web上であっても、現実社会であっても
自分のことって案外わからんもんだからね。
気をつけよっと

[雑感]おくりびと

封切直後の9月14日
TOHOシネマズデイということでTOHOシネマズでは全作品1000円。
喜び勇んで行ったものの、いつも立ち上がりのおそいひんしゅく夫婦。
チケット完売で入場できず、しょうがないので代わりにポニョを観たのだった。
そして、それっきり観る機会を逸し今日に至る。
凱旋上映あるのかなぁ、観たいじょ〜


昨日の夜は全国ネットのニュースもローカルニュースもオスカー受賞で大騒ぎ。
監督はここT山県T岡市の出身なので。
あと、元になった本『納棺夫日記』もT山の人が書きT山の出版社から出ていることをdiscourさんのブログで知る。


おくりびと」で思う「井戸を掘った人」の存在
http://d.hatena.ne.jp/discour/20090223/p1


今日、パン屋でもいろいろ話題になりT本さんが
「監督のお母さん『本当にあたるとは…』って言うとったったけど、あれ全国の人に通じとるかねぇ。テロップに『当たる』って字が使われとったけど…」と


そうやね、そうやね
このへんでは「もらう」ことを「あたる」と言うがやちゃ。
「してもらう」ことを「してあたる」とか、言うがやちゃ。
「当たる」だったら宝くじかなんかに当たったみたいやもんね…

Aさん、Bさん

パン屋で知的障がい者の雇用や実習を受け入れたほんの2年間に出会った障がい者は、おおざっぱに言うと二つのタイプに分けられる。


一つはAさんのように、目の前にある物事をサッサと片付けないと気が済まないタイプ。
上手く仕事の内容を理解してくれれば疲れを知らないかのように、さっささっさと仕事を片付けてくれる。
しかし、その反面、指示してないこと(やる必要のないこと、やってほしくないこと、やってはいけないこと)も自分が「片付いていない」と判断したらさっささっさと取り掛かって片付けてしまう。
あるいは、指示された仕事が終わると相手の都合はおかまいなしに「次の仕事はナンですか?」と責め立て、「待つ」ということができない。


一方全く逆のタイプのBさんがいる。
仕事のスピードはゆったりとしていて急ぎの場合はこっちがイラつくこともある。
しかし、余計なことはしない。
こっちが手いっぱいで相手を出来ない時でも、じっと待っていることができる。


あまりに乱暴な分け方なうえに、なんだか人格無視のような書き方に気分を悪くする方がいるかもしれないが…
しかし、現実問題として私が関わったメイトや実習生はこのどちらかのタイプだった。
というか、人間誰しもこのふたつのタイプに分けられるのかもしれない。
知的障がいがある場合は、その傾向が極端にあらわれるということなのかも
もちろん、ふたつのタイプがミックスされている場合もあるが、その場合は仕事はゆっくりなのに余計なこともする、というよろしくない混合タイプになってしまう。
仕事は速くて余計なこともしないのであれば、それは障がい者ではないのでしょう。たぶん


いずれにしても、そういうそれぞれの特性(と言うのか?)にあった指導をして、特徴をいかした作業を振らないといけない。
また、どちらか一方のタイプの人達だけでは作業が思うようにはかどらない。
Aさんばかりいれば、仕事がはかどって良さそうに思えるが、少なくともウチのパン屋の作業場ではAさんが3人もいると多すぎる。Aさんは言われたことをさっさと片付けて「終わりました」と報告するのが好き。こっちが数を数えている最中でも、接客中であっても、他のスタッフと何か相談ごとをしていても、お構いなしに「終わりました。」と言い続ける。
Aさんのために、「これが終わったら、あれ。あれが終わったら、それ」というふうに次々とさせる仕事のだんどりをしておかないといけない。
そのだんどりに追われるという本末転倒な事態になることもしばしある。
なのでやっぱりウチのパン屋ではAさんは3人いると多すぎる。


では、静かに作業するBさんばかりだったらいいのか、と言うとそういう訳でもない。Bさんは言われた仕事を静かにして、スタッフの負担になるような言動はほとんどない。
しかし、静かだからと放っておくと時間がたつのにちっとも仕事が進んでなくてビックリすることがしょっちゅうだ。
どうも自分で作業のペースを作るのが苦手のようで、声がけをするとその時だけしばらく手が早く動いたりする。でも、放っておくとまた時間の流れがものすごくゆっくりになってしまう。
こんなBさんは時間の概念もないので、「何時までにこれだけしましょう。」という指示も意味がない。


というワケで(どういうわけや?)AさんとBさんに並んで同じ仕事をしてもらうと大変によろしい。
まず、AさんはBさんのペースメーカーになってくれる。一人で作業していると、Bさんの手が止まってしまうこともしばしばだけどAさんが横でさっさとやってくれるとBさんもつられてさっさと動いてくれる。
そうでない場合でも、「あら、Aさんはこれだけできたのね。Bさんも、もう少しがんばりましょうね」とスピードアップさせることができる。
それから、Aさんは仕事は速いが扱いが乱暴なこともある。Bさんならしないような失敗をする。紙を破いたり、パンをつぶしたり。そういう時も「Bさんのように丁寧に仕事をしましょう」と言えば良いのである。


と、モノゴトは簡単に終わるものではない。
「大変によろしい」と言ったけど、「まぁまぁなんとかなる」といった程度かも。実際はスタッフの指導もこんなに冷静にできる場合ばかりでなく、忙しい時に思わぬ失敗をされると「どうしていつもアンタは…くどくど…うだうだ…ぎゃーすぎゃーす」みたいなドロドロの説教におちいる時もある。
スタッフが一人ブチ切れると、その様子を見聞きする他のスタッフもどっと疲れるのでそれはあんまりよろしくない。
スタッフがメイトに対して「そんなに怒らんでも…」みたいな叱り方をすることがあっても(もちろん自分も含めて)、当の本人は仕事が終わって帰る頃には、そんなことすっかり忘れて「お先に失礼します!」と元気に帰っていくのが救いかな…いや、しかし叱られたことは覚えておいてほしいんだけどな。
叱っても(注意しても=指導しても)、帰る頃には忘れている。そういうことがあるから何か注意す時はヒートアップして、ガミガミくどくど言いたくなってしまうのかも。


と、ナニを言いいたいんだかよくわかんない内容になってしまった。
ようするにグチか?
いやいや、そうではなくて、AさんBさんいろんなタイプの人が混ざってる方が職場としてはやりやすい、って話なんだけど。


頭まとまんないから、このぐらいにしとこ

マンマ・ミーア!追記

遅ればせながらマンマ・ミーア!関連のブログをいろいろと覗いてみる。
そうか、みんな「ダンシング・クィーン」踊りだしたくなるのこらえてるんだね。
やっぱ、先陣切って踊りゃよかった。しかし、そうしたらツレはその時点で退出だな、きっと…


ところで、私がラストに納得できなかった理由はヒトエにピアース・ブロスナンの歌と踊りの下手さと魅力の無さにあると思ってたんだけど、それを逆に取るヒトもいて面白く感じた。
つまり、あのハンサムな顔で素晴らしい歌声で歌われたらそれ自体がありえねぇ〜って感じると。あのヘタさが、『不器用さに説得力を持たせる重要な要素』なんだそうで…
こちらのブログです。


マンマ・ミーア!(・・・と思った、2009/02/06)
http://d.hatena.ne.jp/ikko_43/20090206/1233889247


なるほどなるほど
やはり私はヨミが浅いのね
この方はカテゴリーに【おっさん】を持ってるぐらいおっさん好き(怪しい言い方だ)なんですね。
私もそろそろこの道に進もうかな…
いや、すでに足を踏み入れているか。
ジャック・ニコルソンとか、昔はヤバソウだったけど今はもう危険な香りが失せ掛けて旨みが熟成されたおっさんがいいなぁ…