些細なことだけど、なんとなく引っかかる

親子4人で墓参りなどすませ帰宅した。夕食もすませてきたのですでに夜。自宅はからっぽのはずであるが、ちゃんと玄関の灯りがつけられ、リビングルームのちいさな灯りもともっている。いつものことであるが、これは隣に住んでいる姑の行為である。「行為」と書くとなんだか冷たく感じられるかも。でも「仕業」と書くよりはまだいいだろう。「心遣い」と書いてもいいのかもしれないが、そういう気持ちには私はなれない…


わかるかなぁ、この複雑な気分。


職業婦人である友人(古い言い方ですな!しかし、彼女にはこの呼び名がなんとなくふさわしい)のことを思い出した。
彼女が自分達夫婦の部屋の窓を少し開けて仕事に行く、帰ってみると同居している姑がきちんと窓を閉めている。すでに夜なのだから、これも姑の「心遣い」といえるのかもしれない。でも彼女は「私には窓を開ける自由もないのね…」とつぶやいていた。
「洗濯物が取り込まれていることもある…ちゃんとたたんであったりして…」
「すっごくいい人で、全然悪気がないのはわかってる。でも、ほっといてほしい!どこか見つからないところに洗濯物を干したいけど、それも無理…」


ふむふむ


そういう姑さんの行為って、なんとなくひっかる。しかも、この引っかかり感を私以外の家族は全然共有できないだろう。
同居していようが、隣に住んでいようが、息子夫婦は別の所帯、もっと言えばいっそ他人と思ってもらいたいくらい。他人のウチであれば留守中にあがりこんで部屋の灯りをともしたりはしないだろう。部屋の小窓があいていても気にもとめないだろう。結婚前は息子は自分の従属物という意識があったのかもしれない。親だもんね。それにしても息子がいい大人になったらそういう感覚はヘンだと思うけど、その感覚を結婚して所帯を持っても引きずっているんだろうね、たぶん。


念のため書いとくけど、別に私たちは仲たがいしているわけでも、顔もみたくないとか、口もききたくない、とかそういうこじれた関係ではない。だからこそ、留守宅の外灯をともす様な親切行為をするわけだ。時々姑は、卵や牛乳を切らしたといってウチの台所に借りにきたりもする。私はそういうのは全然OKなんだけど、でもやっぱり留守中にあがられたりするんはなんとなくイヤ。ささいなことではあるけれど「してあげといた」っていう感じがイヤなのだろうか。こういうことは、言うとささくれだつから言わないようにしているけれど、それはそれでストレスが…