人権弁論大会

先日、娘の中学で人権弁論大会があった。クラス、学年、と次々に選抜されて全校弁論大会では7人が登場。全校の大会は保護者にも公開されるので、平日だけど行ってきた。
弁論大会に先立ち生徒が作って演じる人権紙芝居が披露された。しかし、なんで「夕鶴」?読み手はラジオドラマのようにキャスティングされていて、みなけっこう上手。あまり上手すぎて、人権紙芝居というよりは恋愛ドラマのようだった。田舎の中学生にしては上出来。(このあたりの表現は、ほめてるんだけど、自分とこの学校をあまりほめるのもなんだなぁという、屈折したオバサン心のあらわれであります。)


で、本題の弁論大会。1年生から順に発表するが、段階をおって少年少女が成長していくさまがありありと見てとれて興味深い。小学校を卒業して初めてこれを聞いた時はとっても驚いた、というか感心したというか、小学生と中学生ってこんなに違うのね!とショックを受けた。招待されている校区の小学校の校長先生もオバサンと同じ気持ちでしょう。
さて、今年の代表はネタ(と言ったら言葉が悪いね)に悲壮なものがなく日常レベルのエピソード、体験から展開しているものが多く、ワタシにはそれがかえって好ましかった。悲壮なものというのは、つまり近親者の死や介護、障害など。ネタが悲壮であればあるほど、ただそれだけでズシーンときてしまうのです。もちろん、それだけではなくそこから掘り下げた内容であるから代表として残るのだけど。今回は特に3年の女生徒3名がすばらしかった。ブラジル国籍の子に投げつけられた差別的な言葉、自分の身長の低さ、それまでは未知だった陰湿ないじめの実態に触れたこと、そういう事柄に対して15歳なりに真剣に悲しんだり、悩んだり、憤ったりしている。そしてそれをたった1人の内なる世界で自問自答し、ためらい、迷い、結論を出して、まっすぐな言葉で投げかけてくる。何よりオバサンはその感受性の豊かさに心打たれる。「人権作文」ではあるけれども、「人権」という言葉は出てこない。でも、彼女たちの言葉は飾ることなく「人権」の根幹的なものを伝えてくれる。そして全てのことが「人権」につながっている。どうか、その豊かな感受性を曇らせることなく素敵な女性になってほしいと願うのでありました。