他人のことを思う気持ち

id:debyu-boさんのこちらからid:demianさんのあちらのエントリへいき、前から気になっていた、というか不思議に感じていたことを思い出した。
それは人と人が共感できたり、感情を共有をできたりするのは、どういう距離までなんだろうということ…
たとえば、誰かが突然の事故で亡くなったりする。
それが、連れ合いや子どもであればとっても悲しい。ココロが張り裂けそうな気持ちになるに違いない。
そしてその気持ちが癒えるのには相当な時間がかかりそう。
これが、家族でなく親戚だったら?最初は驚き、悲しむだろうがその度合いは家族のときより若干は少なくなるだろう。四六時中、死んだ人のことを思ったりもしないだろう。葬式が終れば、簡単に日常生活へ戻っていくに違いない。その人のことを忘れてしまうというのとは違うけど。
他人だったら?他人でも、友人や仕事仲間などであれば悲しい。また、近所でいつも挨拶しているような人であってもやっぱり少しは悲しい。名前も顔も知らない人だったら?新聞やテレビの死亡事故に触れるたびに慟哭していては身が持たない。心弾む気分にまではならないにしても(あたりまえだ!)わりと淡々と受け止める。事故の悲惨さや惨状にもよるだろう。痛ましい事故であれば、少なからずココロも痛む。
突然の惨事が外国で起こり、被害者が全て外国人であった場合はどこかヒトゴト(実際ヒトゴトである)のように感じる。しかし、その中に日本人がいた、とか報道されると少なからずココロは動かされる。その人のことが少しづつ明らかにされ報道されていく。同じT山県の人だった。同じT岡市の人だった。子どもと同じ学校の生徒だった。どんどん気持ちはその人に近づいていき、悲しい気持ちも膨らんでいく。(たぶん)
その人の生前のことも報道される。写真なども公開される。泣きくずれる母親の姿や父親のコメントもある。
こうなってくると、親戚と同じぐらいの気分になってくる。


いったい、これはどういったことなのだろう。
身近な存在であれば、ヒトゴトとは感じないのであろうか?では身近な存在って?自分と共通項が多ければ身近なのか?共通項が多いということは分かち合えることも多いということか…何も共通項がないと思うような相手でも、会って話しをしたりするとまた違ってくる。それは、同じ時間や空間を少しでも共有したということが「共通項」となるのだろう。
共通項が少なければよりヒトゴト度はあがる。ヒトゴト度があがるということは共感することも少なくなり、差別や貶めることも平気、戦争だって平気…に、なるのかなぁ


道徳観や美意識みたいなものが人それぞれ違うように、ヒトゴト度が上下する係数みたいなものも人それぞれなのだろう。